小田原まち歩きー下見11

居神神社

居神神社。奥に階段が続いています。

 居神神社は、三浦荒次郎義意公(戦国時代の武将で相模三浦氏最後の当主)を祀り、小田原城の裏鬼門(東北の方角)を守護する、永正17年(1520年)創建の神社です。小田原三大明神の一社に数えられています。旧小田原宿、板橋口近くにあります。旧東海道である国道一号線に面しています。場所柄、海・港に近く漁師が多いことに加えて石屋・畳屋などの職人も多いので、祭礼の時は居神流と呼ばれる荒々しい担ぎ方をするそうです。

 三浦家は桓武平氏の流れをくむ名族で、三浦半島をはじめ鎌倉・平塚・伊勢原をはじめ鎌倉幕府の中核を担った三浦一族の子孫で、陸奥守従四位下三浦道寸義同(よしあつ)の嫡子です。関東の平定をめざす北條早雲(当時は伊勢宗瑞)に攻められ、永正13年(1516年)7月11日、三崎新井城で自害しました。21歳でした。

 15歳の時にはすでに官位弾正少弼を賜り、筋骨たくましく、文武両道に秀でた武将だったと伝えられています。永正17年、居神大明神として祀られました。(松永)

小田原まち歩きー下見10

対潮閣跡

 小田原には著名人、文化人の別邸が多くあったのですが、山下汽船(現・商船三井)の創業者、山下亀三郎の別邸を対潮閣といいました。対潮閣には、山下と同郷の友人、海軍中将の秋山真之(1868~1918)がしばしば訪れていました。秋山は近くの「古希庵」(山県有朋別邸)を訪ねて「国防論」を戦わしていましたが、盲腸炎が悪化して大正7年(1918)2月4日未明に対潮閣内で亡くなりました(49歳)。秋山真之は、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の主人公として描かれた人物です。日露戦争で活躍しました。

 ここの近くに北原白秋「あわて床屋」の説明板があります。金子さんの話だと数年前までこの場所に床屋があったがなくなってしまったそうです。  (松永)

小田原まち歩きー下見⑨

十字町ヒストリア(じゅうじまちヒストリア)

外から見たところ
著名人と小田原の関わった年月
昔の小田原

 十字町商店会(お城南通り商店会)は、小田原城の南にある国道1号線沿いの商店街です。この地域は昔から交通の要所で、明治29年から、人間が客車を押すという豆相人車鉄道の小田原駅がありました。その後、軽便鉄道に代わり、大正12年まで走っていました。十字町ヒストリアは、商店街の人々が小田原の歴史文化を紹介しようと、2015年に作った団体で、その活動拠点がここにある建物(小田原市南町3-1。諸白小路信号角。℡0465ー43ー7774)です。土曜、日曜の10時~16時まで開館していて、この地に住んでいた様々な著名人ー財界人、軍人、文学者などーたちの資料を展示しています。金子不二夫さんがいらっしゃると説明を聞くことができます。  (松永)

ヒストリアで売っているコロッケ。100円。とてもおいしいです。売り切れでなければ食べられます。
掛けられている掛けられている小田原ゆかりの著名人の写真。北原白秋の写真が見えます。
金子様作成の、説明画像。何十枚もあります。

小田原まち歩きー下見⑧

静山荘

 静山荘は西海子小路と諸白小路の交点の西北の角にあります。幕末、ここは横井作十郎の屋敷で、この家は藩の大目付などをして知行(給料代わりに武士に与えられる土地)300石を得ていました。

 現在建っている建物は銀行・保険会社・京浜電鉄など経済界で活躍した故望月軍四郎の別荘です。別の場所にあった農家をここに移築して、内部を別荘向きに改修したものです。平成7年には小田原市により「小田原ゆかりの優れた建造物」に指定されています。不定期に公開されているそうですが、この日は閉まっていました。 (松永)

小田原まち歩きー下見⑦

白秋童謡館

和館へ
藤棚
和館(白秋童謡館)

からたちの実

からたちの花が咲いたよ 白い白い花が咲いたよ からたちのとげはいたいよ 青い青い針のとげだよ(白秋の童謡「からたちの花が咲いたよ」より)

「赤い鳥」の詩碑

赤い鳥 小鳥 なぜなぜ赤い 赤い実を食べた (白秋の童謡「赤い鳥」より)

 小田原文学館の和館は白秋童謡館となっています。(北原白秋は1885年に福岡県柳川の大きな商家の息子として生まれ、1942年11月2日に杉並区阿佐谷で亡くなりました)白秋は1918年に小田原に移住しました。2番目の妻、章子が一緒でした。

 最初の妻俊子は隣家の人妻でした。白秋は彼女と恋に落ち、俊子の夫にそれを発見されて牢につながれました。出獄後示談が成立し、俊子と結婚しました。しかし派手好きな俊子は白秋の両親と折り合いが悪く、ついに白秋は離婚を決意しました。世間は白秋の不倫や投獄されたことを重く見て白秋は仕事がほとんどなくなりました。次の歌は俊子との恋愛をうたったとされます。 

 君かへす朝の舗石さくさくと雪よ林檎の香のごとくふれ

小田原時代、白秋は鈴木三重吉から雑誌『赤い鳥』に童謡を書くよう依頼され、名作を次々生み出しました。それまで市川や小岩などに住んで赤貧洗うがごとき生活をしていた白秋の生活は次第に豊かになってゆきました。逼塞していた時代にも白秋は歌を作り続けました。次の歌は不遇な時代の作です。

昼ながら幽かに光る蛍一つ孟宗の藪を出でて消えたり

この妻は寂しけれども浅茅生の露けき朝は裾かかげけり

 白秋は小田原伝肇寺(でんじょうじ)の一室を借りて住んでいましたが、その境内に家を建てました。白秋はその家を〈木菟(みみずく)の家〉と呼んでいました。住宅の隣に山荘を新築してその棟上げの日に妻章子と新聞記者との仲を疑うことになる失踪事件(誤解が元だったようです)が起き、白秋は章子と離婚します。

 やがて3番目の妻、菊子と再々婚して小田原にそのまま住んだ白秋は子供にも恵まれ、その子のために童謡をますます作るようになりました。そのような白秋の小田原時代の写真や原稿、〈木菟の家〉の模型などが白秋童謡館1階には展示してあります。次の歌はこの時代のものです。

草生には出で入る子らが二人ゐて昼ふかきかなや大き星見ゆ

 白秋童謡館2階では白秋の歌を歌う児童や女性の合唱をモニターで見て聴くことができます。 (松永)

小田原まち歩きー下見⑥

旧尾崎一雄書斎ー小田原文学館敷地内

 旧田中光顕伯爵邸の中、洋館から和館に向かう間に尾崎一雄書斎が移築されています。

 尾崎一雄は小田原市の宗我神社の神官を務めた一族の出身。小田原中学校(現小田原高校)を出て早稲田大学国文科卒業。志賀直哉に師事し、生活苦の中で執筆しました。『暢気眼鏡』で芥川賞を受賞した作家です。療養生活の中でその後大病を患い、療養しながら自然を観察したり死を見つめたりした心境小説を書きました。

 『虫のいろいろ』、『美しい墓地からの眺め』などの作品があります。

 ガラス戸から室内を覗くと火鉢に鉄瓶がかかっているのが見えたり、入り口に掛けてあったであろう額「冬眠屋」が見えたりします。作家がここで執筆をしていた気配というものを残している建物です。

小田原まち歩きー下見⑤

小田原文学館(旧田中光顕伯爵別邸 洋館)

 小田原文学館を見学しました。田中光顕伯爵の旧別邸で、広い敷地です。洋館と和館から成り、それに尾崎一雄旧宅が移築されています。

 洋館内には小田原に関係する様々な文学者(北村透谷ー詩人、坂口安吾ー無頼派の作家、尾崎一雄ー芥川賞作家。心境小説。川崎長太郎ー私小説作家など)の原稿や写真、服などの遺品が展示されています。

 洋館の瓦はスペインから輸入されたもので、今では手に入らないそうです。下見の時ではないですが、12月2日に友人と訪れた時に洋館3階に上りました。サンルームがあり、休憩できます。また、バルコニーに出ることができ、美しい青い瓦を間近に見ることができました♡その時は庭園の紅葉も真っ赤でした。

洋館の青い瓦
階段のランプもクラッシック
12月初旬 紅葉が盛り

庭園の北村透谷記念碑の立て札
北村透谷碑
庭園の北條秀司碑

 庭園内には北村透谷記念碑(島崎藤村筆)、北條秀司(劇作家)碑があります。

小田原まち歩きー下見④

雨香亭

 茶室雨香亭を見学しました。ここの前から、曽我さんが下見メンバーとして加わりました。文学関係に大変強い方です。

 雨香亭は、松本剛吉の別邸です。松本剛吉は山形有朋と親交の深かった政治家です(貴族院議員等を歴任)。建物は大正12年(1923年)に建築され、平成28年(2016年)3月に小田原市の歴史的風致形成建築物に指定されました。

 母屋と別棟の茶室(雨香亭)、待合等の建物と、築山や水景を伴う庭園で構成されています。母屋は8畳の座敷と、6畳の次の間から成ります。お茶と庭園を楽しめる数寄屋風書院造(書院造とは中世に造られた武士の質素な住宅。それに茶室ー数寄屋の影響が加わって数寄屋風書院造となりました)となっています。

 茶室は6畳の広間と5畳の小間から成り、両茶室とも竹やなぐり仕上げ(なぐりー名栗とは、丸太や板の表面に「ちょうな」「与岐」などの道具の削り痕を残しそれを味わいとなす日本古来からの技法)等の職人技や施主のこだわりが随所に感じられる建物です。

 庭園は小田原の別邸には珍しく回遊式(園内を回遊して鑑賞する庭園)です。  (松永)

小田原まち歩きー下見③

伊藤博文像
妙経寺
正恩寺
大蓮寺

 国道一号線を渡って妙経寺の前を通りました。ここは本亀年間(1501~1504)の創立。日蓮宗。鏡信一刀流西原相久の墓があります。郡司成忠(ぐんじなりただ・しげただ)終焉の地。郡司成忠は北千島の探検・開発に尽力しました。郡司の兄は実業家の幸田成常。小説家の幸田露伴は弟。

 正恩寺の前を通りました。浄土真宗大谷派東本願寺の末寺です。門は木造・入母屋造瓦葺の楼門(寛政5年ー1793に3人の小田原の大工によって建てられました)で、上層には寛延3年(1750)に鋳造された梵鐘がありましたが、昭和18年に供出されたままとなっています。

野村靖(神奈川県令・県知事。貴族院議員。内務大臣)の屋敷跡を見ました。野村の娘は伊藤博文の最初の妻となったスミ子です。

 滄浪閣跡の伊藤博文銅像を見ました。伊藤ははじめここに別邸を建て、妻スミ子と暮らしていました。スミ子の実家が近いのでこの土地を選んだそうです。ここで明治民法の草案を作成しました。しかし、攘夷派から命を狙われていた伊藤は、かくまってくれた下関芸者のお梅のもとへ頻繁に通うようになり、お梅は伊藤の子を妊娠しました。

 伊藤はお梅の両親を訪ねましたが、正妻で無ければ伊藤の元へやれないと言われ、スミ子と離婚してお梅と結婚しました。さすがにスミ子の実家の近くのここは居心地が悪かったのか、伊藤は滄浪閣を大磯に造り直します。つまり、滄浪閣は大磯と小田原と2カ所あったわけです。女好きだったと言われる伊藤博文らしいエピソードです。

 大蓮寺の前を通りました。浄土宗。小田原七福神巡りのひとつで福禄寿が祀られています。                              (松永)

小田原まち歩きー下見②

十字町周辺

トランシーバー
路面電車
小田原城お堀
小田原城近くの掲示板

今回の主催者である金子様に出会い、無線機を持って十字町ヒストリアを出発しました。無線機は本番でも使う予定です。近くに昔の都電のような路面車がありました。昔はこの電車が道路を走っていたそうです。

小田原城近くの案内板。お堀の周りには桜が植えられ、春はきれいだろうと思われました。藤棚もあり、いろい楽しめる楽しめるようです。

 お城の前に三の丸小学校があります。2つの小学校が合併してできたらしいですが、名前に城下町らしさを感じます。水戸にやはり「なんのまる」という地名があり、城下町らしさを感じたことを思い出しました。

小田原城石垣。

藤棚を望む
三の丸小学校

 なお、この日のまちあるきとは別の日ですが、友人と小田原の街を歩きました。黒田侯爵別邸だった清閑亭に行ったのですが、この近くです。清閑亭では昔の「お居間」に作られたカフェで抹茶や珈琲をいただくことができます。また、2階はたいへん見晴らしが良く、風が吹き渡り遠くに海が見え、一瞬この世界を離れたような気分を味わうことができます。

 二宮神社もこの近くです。友人と行った時も参拝はできませんでした。二宮金次郎像は最近小学校から消えつつあるそうです。本を読みながら歩いている姿が(歩きスマホを想像させ良くないからだと聞きました(^^ゞ)(松永)

増田鈍翁が書いた「天海僧正養生訓」
抹茶と最中(白餡)
2階からの眺め