小田原まち歩きー十字町ヒストリアさんの街歩きのお手伝いー下見①

11月14日

茅ヶ崎から小田原へ

小田原市内
小田原城お堀と藤棚

 お知り合いになった小田原十字町ヒストリアの金子様が街歩きを行なうということで、お手伝いすることになりました。11月14日、日本文化研究所のスタッフと一緒に伺いました。茅ヶ崎を朝、出発。

 少し遅れてしまい、金子様に電話で道を聞きながら行きました。「~銀座があるから。まあ、シャッターはほとんど閉まっているけどね」とおっしゃる言葉に、最近元気を失なっている小田原への思いが感じられました。

 初めに小田原城の近くを歩きました。トイレの位置を確認。街歩きの場合、大事な要素です。小田原の案内をしてくださるボランテイアの方もいるようです。小田原を知ってもらいたいというみんながお互いに連携できるといいなと思いました。(松永)

 

市川まち歩き④

神輿がしまわれています
江戸
石垣に使われていた石
浅間神社

八坂宮

厳島社

駒どめの石
力石
神楽殿大絵馬

境内の末社など

 葛西八幡宮の境内にはいくつかのお宮があります。本庁の本庁のHPによると、神社の境内にある小さな摂社末社神社と呼ばれています。摂社とは、本社ご祭神(祀られている神)の「荒魂」(あらみたま。神道において神の霊魂が持つ2つの側面の1つで、荒々しい側面のこと)や后神・御子神を祀った社のほか、ご祭神と関係のある神や現社地の地主神など特別な由緒がある社となっていたそうです。そうでないのが末社だそうです。

 葛飾八幡宮の境内にある浅間神社、八坂社、厳島社は末社と思われます。

 江戸城石垣に使われていて刻印のある石も境内にあります。

 「駒どめの石」。源頼朝は治承4年に挙兵しましたが破れて安房国に逃れました。再起を図った頼朝は千葉氏らの援軍を得て下総国府に挙兵した折り、この八幡宮に参詣して

戦勝と武運長久を願いました。その折り、頼朝の馬がこの石に前足をかけ、蹄のあとを残したことから「駒どめの石」と言われるそうです。

 力石(力試しに用いられる大きな石)は、約170㎏です。昔、この石を担いで社の周りを一周して力を競ったそうです。

 神楽殿に大絵馬が飾られています。幕末に奉納されたもので、八幡宮のご祭神の神功皇后の「新羅(現在の朝鮮半島にあった地域出兵」を描いたものです。中央には皇后の臣下である武内宿禰(たけうちのすくね)が描かれ、皇后の体内にはこの八幡宮のご祭神の応神天皇(八幡さま)が宿られていると、『古事記』・『日本書紀』には書かれていると説明板にあります。

市川まち歩き③

本殿

千本公孫樹

 千本公孫樹は、葛飾八幡の御神木として大切にされてきた木です。推定樹齢は1200年を越えると言われています。かつて落雷によって地上6メートルほどの高さで幹が折れましたが、その後、その周囲から多くの芽が伸び、今のような姿になったと言い伝えられています。

 千本公孫樹の名も、多くの幹が寄り集まり、まるで1本の大樹が伸びているように見えることに由来します。根回り10.2メートル,人間の目の高さでは10.8メートルの太さで、根回りより人間の目の高さの方が太くなっているのが特徴です。

 公孫樹には雄株と雌株がありますが、この樹は雄株のため実はつけません。(このブログの「杉並大宮八幡宮まちあるき④」であげた公孫樹は、雄株と雌株がありました)昭和6年、現在の市川市において初めて国の天然記念物に指定されました。

なお、公孫樹の漢字には「公孫樹」、「銀杏」、「鴨脚樹」などがあります。

 「公孫樹」は漢名から来ています。父(祖父)が種をまいても、実がなるのは孫の代になることからです。

 「銀杏」という漢字は、〈いちょう〉と〈ぎんなん〉の2通りの読み方があります。元々は、中国語の銀杏(ぎんなん)・・杏(あんず)の実を小さくして銀のように白い実・・ということから名付けられたので、銀杏(ぎんなん)の木、銀杏(ぎんなん)実と呼ばれていたそうです。

 中国ではまた、イチョウを「鴨脚ヤーチャオ」と呼んでいた時があり、(鴨の脚のような葉だからでしょう)日本ではヤーチャオ→イチョウと変化したそうです。

 まちあるきしたのは10月のはじめでした。まだ緑だった公孫樹も、もう黄色くなっているでしょうか。                  松永     

市川まち歩き②

葛飾八幡宮

 葛飾八幡宮は平安時代に宇多天皇の勅願(天皇の願い)により下総国(現在の千葉県北部、茨城県西部)の総鎮守八幡宮として創建されました。平将門の奉幣(信仰の印にたまぐしを捧げる)、源頼朝の社殿改築、太田道灌の社壇(祈る壇)修復、徳川家康の御朱印地領52石(一石~いっこく~は畑や屋敷の生産高を米の量で表したもの。一石は米150㎏。お米10㎏5000円とすると一石は75,000円くらい。これは江戸時代の金一両くらいにあたる)の寄進など、歴代の武将、著名人の信仰が寄せられてきました。

 厄除け開運・必勝(「勝つしか」の名からも)・安産・育児守護の氏さまとして地域の振興を集めています。毎年9月15日から20日まで開かれる農具市(ぼろ市)はかつて関東三大農具市のひとつに数えられました。また、33年ごとに開かれる大きな祭りもあります。

 随身門は市指定有形文化財です。明治維新以前は、天台宗上野寛永寺の末寺、八幡山法漸寺の仁王門でしたが、神仏分離(明治政府の方針で、それまでの神仏習合の禁止し、禁止し、神道と仏教、紙と仏、神社と寺院とをはっきり区別した)によって八幡宮の随身門となりました。今ある随身(右大臣・左大臣)の場所に仁王像がありましたが、現在は他の寺に遷されています。

 和様、木造単層(1階建て)切妻(屋根の形のひとつで、屋根の一番上の棟から地上にむかってふたつの傾斜面が本を伏せたような山形の形をした屋根)の構造で、屋根はかつては茅葺きでしたが現在は銅葺きです。

 

市川まち歩き

八幡の藪知らず
神社だった。

山本書店ー永井荷風

 2ヶ月ほど前、京成八幡駅近くの古書店、山本書店で永井荷風全集と永井荷風に関する研究書がそれぞれひとくくりになっているのを見かけました。実は私は永井荷風が好きです。若い頃から惹かれていて、荷風が通ったという浅草のアンデイラスという喫茶店にも何度か行きました。黒っぽい年期の入った柱と白い壁。席にひっそり座って荷風が愛したというアンデイラスという、店名と同じ名の小さなロールケーキを食べるのは楽しく、ここでアルバイトしたいなあ、などと勝手な妄想を描いていました。

 2年前に市川文学館で永井荷風展を土屋さんと一緒に見学しました。その折も強い印象を受けました。長身痩躯で街をさまよい、戦時中は戦争に協力するような作品はいっさい書かず、浅草のストリップ劇場に入り浸っていたと言います。文学者や画家などは戦時中、戦争に協力し、士気を鼓舞する作品を作るよう政府から指令が出ました。

 それに応じて作品を作ったけれど、戦後は手のひらを返したように世間の攻撃を受けて日本に居たくなくなり、フランスに渡って生涯を終えたのが藤田嗣治です

 斎藤茂吉も戦を褒め称えるような短歌を多く作りましたが、戦後非常に後悔したといいます。それぞれが戦争という非常事態に遭遇して自分の判断で作品を作ったのですが、その際、いっさい政局にかかわらず、市川(当時は大変へんぴな場所だったと思います)に逼塞して浅草のストリップ小屋の女達と戯れ、カツ丼など毎日の食事を綴った日記(自分に向けての文学です)を残した荷風は、意に沿わぬ時代に文学者として生きるひとつの姿を残したような気がします。

 荷風は文京区で生まれ育ちました。私も出身は文京区で、荷風の屋敷の近くを通って幼稚園に通っていました。薄暗い坂道の様子はよく覚えています。あのあたりに住んでいたんだ・・荷風展でそれを知ってから荷風への親近感は強まりました。また、母校慶応義塾大学で荷風は教鞭を取っていました。さらに最近知ったのですが、偶然にも学校が一緒だったようです。私は筑波大学附属中学・高校の出身ですが、荷風は高校2年生の時にそこの前身である、高等師範学校附属尋常中学校に入ったようです。

 そんなわけで永井荷風にはなんとなく親近感を抱いていましたが、今年還暦を迎え、少し読書にいそしむ生活を送ろうと思ったときに偶然『荷風全集』を見かけたのです。買いたいと思って再び山本書店を訪れたのですが、もう時が経ちすぎていて全集も研究書もあの束はありませんでした。仕方なく研究書を1冊買い、このとき見つけた百人一首の本(CD3300円)を買うかどうするか迷い、土屋さんの許可を得てからまた来ようと店を出ました。

八幡の藪知らず

 「八幡の藪知らず」という言葉を知っていますか?八幡の藪のように底がしれない、という意味です。今回そこへ行ってきました。京成八幡駅の近くです。2年前にも来たのですが、その時は土屋さんとの待ち合わせに遅れそうになって、乗ったタクシーの窓から見ただけでした。歩いて行くと道路の脇に深い竹藪が現れます。「!これか!」と吃驚しました。さすがの貫禄です。昼間でもこんもり深く、入っていったら出てこられるかどうかわかりません。道路沿いに鳥居が立っていて「不知森神社」と書かれています。説明板で近くの葛飾八幡宮の管轄だと知り、お参りしました。    松永

杉並大宮八幡宮まち歩き10

商店街にはお店がいろいろ

商店街。ひたすら歩く。

永福町駅前

帰り道

 大宮八幡宮からの帰り道!これがまた遠いんです。土屋さんは私が「帰りもものすごく歩いてすごく疲れたわ」と話したら「正門前を少し横に歩くとバス停があるから帰りはバスに乗るんだよ」と言っていました!なるほど。そういう方法があるのか。

 参道で⑨に載せた鞍掛の松の木を探すためずっと歩いた後は西永福の駅をめざしました。しかし大通りに出てもどこからどう行ったら良いかわからない・・。ちょうどそこへ2人連れの自転車の人が来ました。電力会社の制服を着ています。こういう時に道を誰に聞くかはコツがあります。地元の人もしくは地域に詳しい人を見つけるコツです!

①お店の人に聞く②宅急便会社の人に聞く③自転車の人に聞く④犬を連れた人に聞く、などです。私は長年家庭教師をしてきましたが、初めて伺う生徒さんの家がなかなか見つからないこともあります。そういう経験で体得した「知恵」です(^_^)

 電力会社の人に駅へ行く道を聞くと、「永福町の駅でいい?」と言って教えてくれたのでその通り歩きました。以前歩いたことのある商店街に出ました。焼き鳥屋さんなど、魅力的な店があります。行きに歩いた西永福からの商店街も安い八百屋さんなどあり、魅力的ですが、このあたりの商店街には心を惹かれます。ただ、荷物が重くなるのが怖いので今回は買い物はせずに歩きました。やがてなんとか駅前に出て、無事井の頭線に乗れました。やれやれ。

 帰宅後、土屋さんに「大宮八幡宮までの道が遠くてわかりにくい」と言うと、「あんまり遠すぎるからもう立て札とかあきらめてるんだろ」と言われました。そうなのでしょうか。杉並区に住んでいる友達に話すと「前はそのあたりに住んでたんですよ」と、細かく近道を教えてくれました。

 「(大宮八幡宮へ行くには) バスも一応あるのですが本数が少なくて。徒歩ですと、永福町北口の『肉汁餃子のダンダダン』の脇を入り、ピザ屋、ピッザーヲターヲラには行かず、すぐの蕎麦屋、辰巳庵の脇の小道に入ってひたすら歩くと、神社の前に出られます。一応、スマホのマップで位置確認をしつつ、どうぞ」

 「西永福ルートだと、商店街を出て比較的大きな道(井通り通り)に出たら、いったん逆方向(吉祥寺方向)にさせてして、すぐの「西永福」交差点(Y字路)で、斜めの道(方南通り)に入ります。あとはただ歩けばいいのですが、すぐに着く南参道はあまり面白くないので、もう少し歩くと、『大宮八幡前』交差点に着いて、そこから鳥居の方に行けます。あの交番23区では珍しくなった『駐在所』です。今度機会があったらご確認あれ」

 ありがたいことに詳細に教えてくれました。🙏せっかくなので「駐在所」と「交番」の違いについて調べてみました。

 交番とは、24時間勤務で休みなし。交代制で、原則複数人数で勤務する所です。駐在所とは、午前8時30分から午後5時15分または午前7時30分から午後4時15分まで開かれており、休みがあります。勤務態勢は日勤制、つまり駐在所に居住しており、原則単独で行動します。

 う~ん、なるほど。そういえば最近「駐在所」は見かけませんね。ありがとうございます。Aくん。勉強になりました。   松永

杉並大宮八幡宮まち歩き⑨

参道の源義家鞍掛けの松
源義家系図

鞍掛けの松

鞍掛けの松

 正門を出てまっすぐ参道を進むとやがて右に源義家公鞍掛けの松が現れます。源義家はこのブログでもご紹介した平安時代の源氏の武将で、大宮八幡宮に若松1万本を寄進しています。奥州平定の際ここに参拝しましたが、その折りここの松に馬の鞍を掛けたという伝承があります。

 私は高校時代、学校のクラブで馬術部に入っていましたが、馬も運動すると汗をかきますし、鞍は重いので、下馬したおりには鞍を取って休ませてやります。鞍は少し水気をすっているので柵などに掛けて干すのが普通です。義家はここまで馬で来てここで下馬して鞍を取り松の木に掛けたのかな?などと想像しました。

 源義家文武両道で知られ、奥州征伐で勿来の関(なこそのせき)で詠んだ歌

「吹く風を勿来の関と思へども道もせに散る山桜かな」(ここは勿来の関なのだから、その名の通り風よ来るな。でもそう思っても風はしきりと吹いて道がふさがるほどに山桜の花が散りしいているよ)

は、『千載和歌集』(7番目の勅撰和歌集~天皇の命によって編纂された和歌集~)にも取られた名歌です。義家の系図を表した立て札も立っています。義家の伝説は今も地元で愛されています。                     松永

杉並大宮八幡宮まち歩き⑧

大宮幼稚園
茶道教室が開かれるようです

御神水が出ています

境内そのほか

 大宮八幡神社境内を歩くとそのほかいろいろな施設があります。大宮幼稚園(土屋さんの長男くんが通っていたのはここでしょう)の前を通ると大きな音で音楽が聞こえてきました。運動会の予行演習のようです。コロナが少し収まって今年は運動会が行われるようで、よかったですね。

 神門を出たところに茶室があり、茶道教室も開かれるようです。それも、きれいな水が出るからでしょう。茶室入り口に青畝の「広き野に霊の清水のあるところ」という句碑があります。青畝とは阿波野青畝(あわのせいほ)のことです。1899年に生まれた奈良県出身の俳人で原田浜人(ひんじん)、高浜虚子に師事しました。昭和初期に山口誓子、高野素十(すじゅう)、水原秋桜子と共に「ホトトギス4S」と称されました。「かつらぎ」を主宰し、1992年に亡くなりました。明治32年奈良県に生まれ、1929年(昭和4年)『かつらぎ』を創刊し、関西俳壇の雄と目されました。句集に『万両』、『甲子園』などがあります。

 御神水は飲むことができます。小さな石の鳥居をくぐると小さなその下鳥居があります。に竜吐水口があります。そしてその横に水栓があります。今は湧き水は涸れてしまってらく、その場所に井戸を掘って水を出しているようです。

 蛇口をひねると水が出ますが量の制限もあるようです。やはり、あまりたくさん持ち帰ると涸れてしまうから、自制が必要ですね。善福寺川が近くを流れており、その水系のようです。

杉並大宮八幡宮まち歩き⑦

共生の木
なで石
幸福がえるの絵馬

縁むすび

 大宮八幡宮には男女や他の人々との縁結び、協調を祈る場所もたくさんあります。「共生の木」は、かやの木に犬桜が寄生しているものです。違う種類の2本の木が1本の幹で結ばれて助け合って生きています。その様子は「共生」(国際協調、宗教協力、相互扶助、夫婦和合)を示している御神木です。

 結婚式場清涼殿に向かって左に「幸福撫でがえる石」があります。そこで石を撫でて裏を一周回るのが「幸福むかえる路」です。石の裏には絵馬を掛ける所があり、たくさんの「幸福がえるの絵馬」が掛かっています。結婚式をあげたカップルも奉納するのだろうな、などと思いながら歩きました♡

 お参りした折りに絵馬を奉納してみては?       松永